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こころを何にたとえよお

「ゲド戦記」の予告編はずるいです。「テルーの唄」という歌を丸々流す予告ですが、この歌、やばいです。何度聞いても泣きそうになります。こころのちからが弱ってる証拠かもしれません。

http://www.ghibli.jp/25trailer/

「テルーの唄」

夕闇迫る 雲の上 
いつも一羽で 飛んでいる
鷹は きっと 悲しかろ

音も途絶えた 風の中
空を掴んだ その翼
休めることは できなくて

心を何にたとえよう
鷹のような この心

心を何にたとえよう
空を舞うような悲しさを

人影たえた 野の道を
私とともに 歩んでる
あなたも きっと 寂しかろう

虫もささやく 草はらを
ともに 道行く 人だけど
絶えて ものいう こともなく

心を何に たとえよう
一人 道行く この心

心を何に たとえよう
一人ぼっちの 寂しさを



公式ページによると、この歌詞の発想は、次の詩から得られたそうです。

「こころ」  萩原朔太郎

こころをばなににたとえん
こころはあじさいの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思い出ばかりはせんなくて。

こころはまた夕闇の園生(そのう)のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかいなしや
ああこのこころをばなににたとえん。

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言うことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。



朔太郎の詩との関係はよく分かりませんが、「テルーの唄」に出てくる
「鷹」には懐かしさを感じました。

何を思い出したかと言うと、大昔の「アルプスの少女ハイジ」のアルムおんじです。里の村人とは一線を画し、孤高の存在として生きていたおんじなのですが、あるときハイジに「おじいさんは鷹?」と訊かれるシーンが出てきます。そして画像的にも鷹の飛ぶ姿とおんじの顔が重ねられる。

こういう鷹のような生き方はかっこいいんですよ。人を見下す、ってことではない。ただ、安易に交わりたくない。自分は他とは異なるという自尊心がある・・・。あこがれました。ハイジを見ていた若い頃だったからなおさら(とはいえ、ハイジを見るには年寄りすぎると言える高校・大学生だったか?になっていましたが:笑)。ただ、鷹の生き方は寂しいんです。孤独です。鷹は女の子にもてません。

実際、宮崎アニメでは、鷹のような生き方は描かれるものの、結局は否定されます。ダメなんです。ハイジでも否定されてる(結局、おんじは里の人々と和合する)。ハウルにも似たイメージが出てきて、鳥になって高みから戦争をする人々を見下ろしていたハウルは傷つき、地上(というかハウルの動く城)に降りて彼女とチューをします。(完全に地上に降りたわけではなく、動く城という空中だか地上だかわかんないところに落ち着いたところがミソなのかも)。

かといって、鷹の生き方がまるっきりダメかというと、そういうメッセージも、宮崎アニメにはありません。むしろ鷹の生き方を描くことで、それに対してかなりのシンパシーを寄せているのが分かります。紅の豚なんかもそれ。

鷹の気持は分かるが、人と離れてはダメだ、ということなのかもしれません。鷹のような誇りを持って、同時に人々と連帯して生きなさい、っていうのが宮崎駿のメッセージのひとつなのかも。そして、そのメッセージが、「テルーの唄」にも聞こえてくる。

ともあれ、宮崎吾郎は宮崎駿とは違うのだけど、すこぶる宮崎駿的なのではないかと、彼が作詞したこの曲を聴きながら思うのでした。

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